神奈川県横浜市の鶴見区には、生麦事件碑という石碑があります。
生麦事件碑は横浜市内の観光名所のひとつでもありますが、生麦事件と聞いても、よくわからない方も多いのではないでしょうか。
この記事では、生麦事件碑について解説します。
生麦という地名の由来や、生麦事件が戦争にまで発展した理由などに触れてご説明しますので、ぜひ参考にしてください。
横浜市鶴見区にある生麦事件碑とは?地名の由来
生麦の地名の由来については、2つの説が存在します。
まず、生麦を刈り取って道に敷いたことから生麦と呼ばれているという説です。
江戸時代、徳川将軍がこの地を訪れた際に将軍様が通る道として、暮らしを支える大事な麦を実りの前に刈り取り、道に敷いたとされています。
もう一方の説は、貝の「生むき」から転じて、「なまむぎ」になったとするものです。
江戸時代に、この地域は御菜八ヶ浦のひとつとして江戸の将軍家へ魚介類を献上するほど、アサリやアカガイが豊富に収穫されていました。
生麦の漁師たちは貝をむき、その貝殻を道に敷いていたとも言われています。
収穫した貝をむき身にして売ることで生計を立てていたものも多かったため「生むき村」と呼ばれ、その後「なまむぎ村」へ転じたとされています。
横浜市鶴見区にある生麦事件碑とは?事件が戦争に発展した理由
生麦事件碑は、生麦事件を後世へ伝えていくため、1885年に橘樹郡区制の第三大区四小区副戸長であった黒川荘三によって設置された石碑です。
生麦事件とは、1862年の8月21日に生麦村で起きた英国人殺傷事件で、石碑には被害者となった英国商人リチャードソンの死を悼む歌が記されています。
当時の日本では、産婆と飛脚以外が大名行列を横切ることは許されておらず、横切った場合は藩士によって切り捨てることが許されていました。
そして、何度も制止したにもかかわらず大名行列を横切った英国人たちが、薩摩藩士によって問答無用で切り捨てられたのが生麦事件です。
薩摩藩は英国から犯人の死刑と賠償金の支払いを請求されるも、それを拒絶したため、両者の関係は悪化し、英国は薩摩藩領内への攻撃を始めました。
結果的に、英国対薩摩藩の戦争にまで発展してしまった事件です。
●所在地:神奈川県横浜市鶴見区生麦1-16
●営業時間:24時間
●定休日:なし
●交通アクセス:「生麦駅」から徒歩約10分
●駐車場:なし(近隣にコインパーキングあり)
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